プロフィール

加藤たかあき について

▶profile

・1987 年2月26 日生まれ
・川崎市幸区南加瀬在住
・衆議院議員 元公設秘書
・自民党川崎市幸区第六支部 支部長
・自民党幸区連合支部 青年局長
・自民党川崎市連 青年局 副局長
・自民党川崎市連 政務調査委員
・自民党川崎市連 広報副委員長
・自民党川崎市連 基本問題対策委員
 (都市問題担当)
・幸消防団 第四分団 所属
・趣味:スポーツ(バスケ歴10 年)

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川崎市議会議員 加藤孝明 事務所
 (自民党川崎市幸区第六支部)
〒212-0054
川崎市幸区小倉2-17-11-101
TEL:044-589-3935
FAX:044-589-3937
メール:mail@kato.news
Facebook:加藤たかあき
Twitter:TakaakiKato0226

加藤たかあきってどんな人?

昭和62年(1987年)2月26日

埼玉県三郷市にて東京消防庁に勤める厳格な父と東日本銀行に勤める穏やかな母の長男として生を授かる。
翌年、妹が生まれ(学年では二つ下)四人家族に。
「行儀がよく繊細、温厚であり几帳面」という兎年魚座A型の星の元、怪我や病気もなくすくすくと育つ。

 平成3年 私立わせだ幼稚園入園

早生まれということもあり、周りの子に比べて背が小さく泣き虫。
少しでもたくましく育って欲しいとの両親の思いからスイミングスクールに通い始めるが、一人になるのが怖い上に寂しく、家を出る前から泣き、よく二人を困らせていたよう。行けないこともしばしばあり、プールに顔を付けられるようになるまで三ヶ月かかる。

  平成5年 埼玉県三郷市立後谷小学校入学

遊びに行く前に宿題と次の日の準備を済ませる真面目な少年に成長。
ドラゴンボールの特にゴテンクスが大好きで、自分も超サイヤ人になれると本気で考えていた。
ポケモン(青)では裏技を使い151匹獲得。ミニ四駆の愛車はネオトライダガーZMC。
この頃の将来の夢はアナウンサーになり取材で世界中を飛び回ること。英会話塾に通い英検にも合格。
あんなにも嫌だったスイミングでは友人ができたこともあり通い続け、選手コース(一番上)にまで進級。
体育の授業でも活躍し、水泳と陸上の短距離で学校の代表チームとして市の大会に出場。
高学年になってからは友人の誘いで近所のミニバスケットボールクラブにも遊びに行くようになる。

  平成11年 埼玉県三郷市立早稲田中学校入学

英会話塾から進学塾に切り替える。八年間通ったスイミングスクールを辞め、バスケットボール部に入部。
入部したバスケットボール部は県大会で上位に輝く強豪で練習も大変厳しかったが、いわゆる「体育会系」と言われる縦社会の基本を学ぶと同時に、仲間と一つの目標に向かい切磋琢磨し苦楽を共にすることの大切さと楽しさを知る。
2年生になると、北辰テスト(埼玉県内の中学生を対象とした学力テスト)で数学と英語で偏差値70、国語と理科でも65を越える。社会は苦手だった。
この頃、思春期に入ると共に、様々なことに対する興味心やチャレンジ精神が芽生える。
体育祭や合唱コンクール等、クラス毎の順位を競う行事も多かったため、クラスをまとめ上位を取りたい、そして目立ちたい、との思いから学級委員に志願。中学二年から高校卒業まで委員会は常に学級委員。
芸能界に対する憧れが強く、ゆずや19の影響でギターを始めたりもしたが、友人を笑わすことが大好きだったこともあり、将来の夢がアナウンサーからお笑い芸人に変わる。ちなみにテレビで大活躍されている某有名女性アナウンサーは一学年上の先輩である。(同窓としての自慢)
3年生の夏に部活を引退し、受験勉強に専念とはならず、思春期まっただ中興味の幅を更に広げ、成績を若干下降しながら高校受験へ。

  平成14年 私立春日部共栄高等学校入学

バスケットボール部入部。学級委員会入会。
球技大会ではソフトボールでピッチャーとして強豪野球部からも三振を奪いクラスを二年間優勝へ導く。
文化祭では模擬店の出店の他、友人とバンドも結成。
高校時代ハマっていたのは、放課後ディズニー・カラオケ・UFOキャッチャー・ポッポの山盛りポテト。
青春を謳歌する一方、将来の夢が分からず、希望する大学・学部も定まらない中、大学受験へ突入。
当然、曖昧な将来設計では納得のできる結果とはならず、浪人生へ。(最初にして最大の挫折)

  平成17年以降

依然として将来像が描けず、就職氷河期とも言われているこの時代に大学を卒業することが必ずしも正解なのか、終身雇用が期待できないのであれば手に職をつけた方が賢明なのではないか、という疑問さえ生まれてくる。

高校の恩師からも心配の連絡が絶えない中、何気なく始めたアルバイトを機に様々な職業を実際に体験し社会を学びたいとの思いに。

経験した職業

家庭教師(対:中学生)

友人の紹介で中学1年生の男子児童を三学期から二年間、私自身が苦手だった社会科以外を引き受ける。
勉強以外の相談を受けたり、一緒に遊ぶこともあったが、無事志望校に合格した時は嬉しさと充実感、そして巣立たれるような寂しさで胸が熱くなった。たかが家庭教師ではあったが、人生を預かるという責任感を知る。

福祉施設事務(グループホーム)

福祉について学びたいとの思いもあったため、知人の紹介により主に夜勤を務めた。
様々な家庭環境による問題や、見た目だけでは分からないハンディキャップを抱えている方が多く存在している事実を改めて確認し、自立支援や助け合える社会の実現、自分自身には何ができるのかを考えるようになる。

引越センター

人生のターニングポイントで経験される方も多い引っ越し。CMみたいで恐縮だが、人生の節目に真心を持って対応させていただいた。多くの場面で女性の強さを色々な意味で体感する。

土木(解体、足場の建設)

当時は「眠い暑い辛い」としか考えられなかったが、今思えば私たちの生活に欠かせない大きな物作りの基盤に関わっていたのだと思うと感慨深い。そして身体を動かして働くということの大変さを身をもって実感した。

海の家店員、副店長(片瀬江ノ島)

海なし県である埼玉県民として憧れの湘南へ。華やかな世界を想像していたが、正直一番辛かった。日が昇る前に開店準備をし、日中は強烈な日光の下を走り回り、夜は日付が変わる頃までBar営業。労働基準法と最低賃金は海岸には適用されないのかと疑うほどだった。

肌が紫色になるまでヤケドをすることもあったが、お客さまの笑顔と「また来るね」の声を励みに三年間(シーズン)勤め、三年目には副店長を務めた。何よりもお金を稼ぐということの大変さを知り、根性も身につけた。平成24年にはアイドルが職業体験をするという番組で指導をする現役の店員役としてテレビ番組にも出演。

お台場大江戸温泉物語内テナント副店長(Bar)

大江戸温泉物語とは全国に温泉施設やホテルを有する企業である。お台場にある大江戸温泉物語は東京都との事業用定期借地権設定契約の上限により令和3年9月5日をもって惜しまれながら閉館したが、海の家でのご縁から施設内のテナント(Bar)で副店長を務めた。癒しの空間での至福の一時を提供させていただくことを目標としながら、経営についても学ぶことができた。

飲食店(Bar)

六本木のBarでバーテンダーとして勤務。大企業の社長や芸能人、悩みを抱えた会社員の方等、まさしく多種多様な人たちの様々な人間模様に触れ、毎日が刺激的だった。

外国のお客さまも非常に多く、当時(平成23年頃)は外国人参政権が議論されていたこともあり、「政治」というものが我々の生活に大きく関わっており、日本人の一人としてもっと真剣に考えなくてはならないと強く思うようになる。それと同時に目の前でお酒を飲み愚痴をこぼしているこの人を救うのも政治なのかもしれないと考える。

これらの職業を経験して・・・

様々な職業を体験する中で、授業や教科書では学べないことを多く学び、得た経験は私自身を大きく成長させてくれた。

そしてまだ見ぬ世界へ挑戦してみたいとの思いから、長年に渡りお世話になっていた横浜の企業を通じて、衆議院議員田中和德先生をご紹介いただく。

平成24年10月

衆議院議員田中和德事務所 入所
政権交代を睨み熱気に満ち溢れる雰囲気の中、経験する全てのことが新鮮で感銘を受けると共に、事務所で寝泊まりをしながら銭湯に通う6ヶ月の生活が「見習い」としてスタートをする。

平成24年12月

第46回衆議院議員総選挙にて当時の民主党から自民党が政権を取り戻す。

平成25年1月

幸区担当秘書 就任

平成25年4月


川崎市幸区の住民となる。

2013年 仕事終わりに幸区で一杯
2015年 幸区の方たちと日帰りバス旅行へ(1)
2015年 幸区の方たちと日帰りバス旅行へ(2)
2016年 幸区内町内会の新年会で一曲
地域活動の師、鏑木市議と共に節分祭で
夏の祭礼では毎年幸区中を走り回りました

令和2年2月

地域活動の師であり、ご指導をいただいてきた鏑木茂哉議員(自民党)がご逝去される。

政治の道を志す決意をする。
詳しくは「政治理念」ページへ。

令和3年3月

公募による選定方式(書類審査、レポート、面接)により自民党公認候補予定者と決定される。
個人活動に専念するため8年半勤めた田中事務所を退所。

令和3年10月31日

川崎市議会議員幸区選挙区補欠選挙(欠員:1)において、41,615票(川崎市議会歴代最多得票数)を得て初当選。